全ての存在は
「神」と「一つ」にある「光」の閃光(魂)であり、
彼らが在るようにと創造されているままに永遠にある。
"世界|world"とは:
イェシュアが言う"世界"とは、マインドの中で保持されている、膨大な信念・観念、認識、態度の列挙のことです。
それはまるで、心配や疑いといったことを経験するために振動している一定のシグナル・信号だけを容認することができるフィルターのようなものです。
そのため、その世界が終わる時、私たち自身の偽りの分離した世界が終わります。それは、地球が終わることでも、時空が終わることでもありません。
世界の終焉とは、「創造」が「それそのもの」を成就することを容認する、(意識が)高まった最終の日です。その時、全てのもの・ことが輝き、ついに調和の中で、「天」そのものとして見られます。「天」が地にやって来たということです。
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*翻訳本『イェシュアの手紙』の著者はジェイエム(旧名マーク・ハマー)です。また、上記の"世界"に関する要の記述が抜け落ちていますので(出版社には訂正を依頼済み)書き加えてお読みください。
イェシュア(イエス)
- Jeshua (Jesus) -
「彼」は何を実際に教えたのでしょう?
イェシュアは、私たち全員が「イエス」として知っている人物であり、その名前(Jesus)は、「彼」の原語であるアラム語での名前「イェシュア」(綴りは、 Y'shua や Yeshuaなど)がギリシャ語とラテン語経由で翻訳されたものです。私たちは、『イェシュアの手紙』*で詳述されているジェイエムと「彼」の最初の息をのむような数々の遭遇を尊重して、Jeshua(イェシュア)と綴っています。
「彼」の「教え」は--「マスタリーの道」の5つの主要テキスト、「彼」の母語であるアラム語での「彼」の元来の『主の祈り』と、とりわけ『山上の垂訓』の回復の中で見つけられるように--上級スピリチュアリティの基準を本当に満たす、広大で、非凡でありながらも地に足のついた永久の叡智を明らかにしています。
つまり、これらの「教え」は、マインドを訂正し、ハートを癒し、魂を目覚めさせるということです。
彼が教えたことを端的に言うと:
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全ての存在は、「神」と「一つ」にある「光」の閃光(魂)であり、彼らが在るようにと創造されているままに永遠にある。
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私たちはそれぞれ、自分が経験することを選択し、それゆえにそれをその通りに引き寄せるために「光」をどのように使うかに関して完全に自分が源であると受け入れて対応することができ、また、この選択のパワーは、輝く主権ある魂の最も根源的な側面である。
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「神」は「愛」であり、そして「愛」は非難をしない、つまり判断が無い。
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全ての存在は、許され、怖れから「愛」に自分の(意識の)定位置を変容するために(もし意欲があるならば)サポートされる。
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私たちが許し、それからこの「アトーンメント」に仕える方法を見つけてやっと、私たちは本当に完全な悟りに目覚め、「マスタリー」に入るかもしれない。
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許しとは、知的な意思表示・ジェスチャーではなく、自身の存在の根元的な変容であり、アラム語の「washwoklan」に最適に要約されている。つまり、「本来の全きさ」に戻ることである。
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私たちの「和合」と「実在」は変わっていなく、変わることはなく、また変わることはできないとはいえ、私たちは、自分の選択のパワーを使って、「原始の分離」を達成したという信念から流れる経験を想像し創り出してきた。
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次が"地獄"の本当の意味である。しばしば隠れているとはいえ、「分離」は、「原始の罪悪感」、つまり、人類の多種多様な心理的・行動的苦悩の形を生み出す自身の内的存在への"機能不全の"感覚を引き起こす。
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「天」は、地獄と同様に、浄化、癒し、そして悟りへの覚醒のプロセスに入り、それらをやり抜く意欲がある全ての存在たちに潜在的に可能なものである。「天」は、この世界を超えた「光」の無限の領域のいずれにおいてもそうであるのと同様に「ここ」にある。
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罪とは、道徳的な失敗ではなく、この「光」を真知して生きることへの抵抗である。
「教え」は、とても深遠で奥深いため、それらを自分自身で探究する以外に、十分公平な評価を与えることはただ不可能です。
イェシュアはジェイエムに「私たちの関係を通して二つのことを目指している」と伝えました:
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「彼」が生徒でもありティーチャーでもあった包括的な「パスウェイ」(辿る道)を、生徒(ジェイエム)の準備度に従って、完全に回復すること
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あらゆる魂が「覚醒」への最初の胎動から、「彼」が「キリストのマインド」と呼ぶものに完全に成熟して、具現化したマスタリーに至るまでをサポートする「マスタリーの道」の「パスウェイ」を設立すること
イェシュアを際立たせている二つの質:
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「彼」の「叡智」の深さと明瞭さ
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その「叡智」が伝えられる方法が有する機知とユーモア、そして軽妙さ
「彼」の母語であるアラム語:
イェシュアの原語、つまり「彼」の教えの全ての言語は、アラム語であり、メル・ギブソンの「The Passion of Christ(キリストの情熱)」が上映されるまで、ほとんどの西洋のキリスト教徒が気付いていなかった真実です。
アラム語の言葉:
アラム語は音調と振動エネルギーを持つ言葉です。西洋文明の平坦な言語構造と非常に違っています。抑揚の変化をつけて与えられる一つの言葉は、一度に意識の7つのレベル、つまり7つのレベルの意味を語っています。
ご存知ですか?
イェシュアは、私たちを導く叡智の源を「シェム(shem)」と言っていました。「彼」はそれを、「神」のインスピレーション・意志・インテリジェンス・思いやり・全員にとって制限のない、アクセス可能な熟練した愛、それらである純粋な光として見ました。
「彼」の教えがギリシャ語に翻訳された時、翻訳者はこの神秘的なシェムは「女性性」の原型的エネルギーのようだと感じ取り、そのためそれを「ソフィア」、つまり叡智の女神として訳しました。
それからラテン語、ゲルマン語を経由して最終的に「ジェームズ王訳」の「聖書」の中でそれは「ホーリー・スピリット」として私たちのところに来ました。それは、「彼(he)」ではなく、「それ(it)」です。
いかなる本物の成長は、「新しい自己」を統合する気づき、認知、そして叡智の成長であり、あらゆる生粋のスピリチュアリティは、教義や信念における教化・植え付けではなく、「ハート」で直感するこの「導く光」、つまり、単なる知性や理由付けを遥かに超えたインテリジェンスの能力である、この深い内面のガイダンスの源につながり、そこから学んで生きる自分自身の本来の能力を全ての存在の中で培うことを、その第一のゴールとして持たなくてはなりません。
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