– ジェイエム(Jayem)–
『イェシュアの手紙』の著者
(旧名:マーク・ハマー)
『ハートの道』、『変容の道』、
『悟りの道』のイェシュアの
「ライブ(生)」チャネラー
総記:
一般的に"チャネリング"と呼ばれているものとは異なり、イェシュアが、「彼」の"導管・媒介者"としてのジェイエムを通して当時交信した時、ジェイエムは完全に体外離脱をしていて、その間に起きたことに気づきを持っていないため、伝達されたメッセージやそこにあるエネルギーは全て、「彼自身」がジェイエムの身体-マインドを使いそれを通してじかに発信したもの。すなわち、「イエス」の「ライブ」です。
さらに、そのかなり後年には、このようにイェシュアあるいは他のマスターたちと完全に調和に在るなかで、なおかつジェイエム自身もそこに存在し、何が起きているかに気づいていながら「彼ら」の「ライブ」に仕えるという、"導管・媒介者"としての意識のさらに深い可能性に居続ける方法をイェシュアは教えました。
"書き取り(scribing)"によるチャネリングに関しても、ジェイエムが書き取っているのではなく、イェシュアがジェイエムの手を動かしています。
このように、"媒介者"として仕えることの意味や内容が、一般的な"チャネラー・媒介者"に関しての観念や概念とは異なっています。
チャネリング体験についてのシェアリング:
イェシュアが、鮮やかな金色に輝く白い光のフィールドから私の前に初めて現れた1987年8月当時、私は、「座って瞑想しよう」という内面で振動すると同時に辺り一面から聞こえた「声」に応じて、座って開眼瞑想をしていました。「彼」とのこの最初のコンタクトの年については、『イェシュアの手紙』の中で詳しく述べています。「彼」は、定期的に私を午前3時半に起こし、「叡智の種が、エゴの防衛の裏に深く入るのを容認するために求められる開放性に、少しの眠気は役に立つ」と提案しました。あくびをしながら、また時々ぶつぶつ言いながら、私はノートとペンを取り、やなぎ細工のロッキングチェアに座り、そして待ちました。
それからすぐに、深い平安の光と振動エネルギーが、私を完全に満たしながら立ちこめているように思えました。続いて私は「彼」をはっきりと見ると、「彼」は私に「ノートを取る」時間であると提案しました。「彼」が交信すると、言葉のまさに振動エネルギーが私の手を文字どおり動かして、それらを書き留めました! 膝の上の黄色い罫線ノートでこれが起きているのを観照することは驚嘆でしたが、「私はこれを一切行っていない!うわっ!」と分かりショックを受けました。
「彼」が今ここに存在していた間、「彼」が分かち合ったことは全て「真実」だと、私にははっきり明快に聞こえたように思えました。それでいながらも、「彼」が立ち去ると、いつもの自己の感覚に戻りながら、あたかも自分自身の振動エネルギーが"落ちている"かのごとく感じたものです。そしてこれが起きると、疑いと、そして深く抑圧された怖れが、時にはそれほど穏やかにではなく、出てきたものです! 正直なところ、それは、私をひどく怖がらせました! なぜでしょう?
私は、"肉体を持たない存在たち"との神秘的な遭遇のようなものが実際にあり得ると信じるにあたっては、自分の哲学と宗教学の学位をもってして、"知的に洗練されている"そして"まあ、知識にあまりにも富んでいる"ぐらいに自分自身をみなしていました! さらに、もっと恐怖におののいたことは、自分が--怖れていた考えですが--媒介者(channel)として使われるという予測でした! ということで、ここから始めていくのが賢明かと思います。
私は、"チャネリング"とは単に、注目、当てにしてもらうこと、また多分にお金を強く欲する貪欲な"教養がない"マインドが行う、たちの悪い幻覚体験だと信じていました! チャネリングとはそういうものなのでしょうか? 残念ながら、よくあります! 起きていたことは、私たちの全員を怖がらせるまさにコントロールの喪失のような感覚でしたが、それはまた、生粋の癒しと目覚め、つまり悟りそのものの顕著な特徴でもあります。しかしながら私は、これを理解するにはとても程遠いところにいました。
チャネリング(媒介して交信すること)。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの有神論の宗教は、全て、「大いなる源」を媒介し交信された教えから出現していますし、ダライ・ラマもまた、ガイダンス(指針)を求めてチャネリングのマスターたちと協議します! 『聖書』はそれに満ちており、預言者たちは全員、「神」の媒介者として仕えました。徐々に、私は「彼」に委ねていくにつれて、また「分離」と「エゴ」の最も深い根本が本物の癒しのために気づきの中に溢れ出るにつれて、チャネリングとは、私たち全員がいつも行っていることだということに実感的に気づくようになりました! 私たちが何を媒介して交信するかは、何に触れられ、変えられることに自分を開いているかということ、またたとえ自分で気づいていなくても実際何に最も価値を置いているかということに、完全に依拠しているのです!
悟りとは、何かを把握したり取得する旅ではありません。それは、イェシュア自身の言葉を使うと「自分がそれに対して作り上げてきた障害」を溶かし消していく(dissolving)旅です。それは、並外れた訂正であり、自分という自己、「神」、「実在」への私たちが持っている感覚の隠れている核心を突きながら、単なる観念・考えや信念をはるかに超えていくものです。同時にそれは、私たちの人生のあらゆる側面を変容し、また変貌させるようになります。すなわち、私たちがどう感じるか、何に価値を置くか、何に時間を使うか、頭脳での理解に光明を与えるだけでなく、文字どおり、自分の存在の"フィールド"、自分が世界に発する全ての振る舞いが作用する領域を変えます。
私は、自分のエゴが何らかの形で、先述した全てのことを作り上げているのではないか、という非常に深い怖れを持っていたため、「彼」であると「彼」が言う「彼」であることを「彼」が証明するようにと、「彼」に要求しました。そして、「彼」が客観的な証拠という証拠を提供したにも関わらず、自分自身の不信感の深い根本が、やっと「彼」と自分自身の経験への受容に変わるのを完全に感じるのに、さらに9年間を要しました。私はまだ、懐疑的態度は健康的で必要だと信じています。かつて聖ポールが言ったように、「スピリットたちをテストしましょう!」
『ハートの道』・『変容の道』・『悟りの道』は、「ライブ」を音声録音したものから書き起こしたもので--私が"チャネリング"しているものからではありません--言わば、"書き取り(scribing)"という経験には、ここに存在しているという背景がまだあり、それゆえにその全てを色づけしやすいということがあります--しかし、これは、シンプルに「イエス」の「ライブ」です。これが急進的な言明だというのはわかりますが、それはまたまさに真実でもあります。どうしてそうなのでしょうか?
イェシュアが、「『彼』の友たちに直接話したい」と示唆し--(内面のとても深い『呼びかけ』に動かされて、叡智、癒し、そして成長に自分を開いている人は誰でも『彼』の友です!)、そして私が、これはつまり晒されることであり、全てのコントロールの試みを超えて委ねることだ!と分かった1年後のことです。「彼」は私に簡単な祈りを与えました。そして私がそれをゆっくりと復唱するにつれて、次のことがいつも起こりました。
まず、私は、内面の深い瞑想的なスペースへと自分自身が降りていき、マインドが静謐(せいひつ)へと落ち着いていくのを感じます。すると、振動エネルギーが起き始め、自己、身体、世界への全ての気づきが退くにつれて、その言いようもない美しいエネルギーそのものへと私を"連れて行きます"。その金色に輝く白い光が全てとなり、その中で、「彼」はその振動エネルギーをさらにみなぎらせながら現れます。
それからすぐに、私は、自分自身が身体から完全に持ち上げ出されるのを感じます。椅子にある自分の身体、集まっているグループを、自分の下に、その後すぐさらに高いところから"見る"ことができます。これが起こる際、私はグループの周りに、存在たちの輪(私は彼らを"白い光の存在たち"と呼びました)が見えます。すると、ビュンという感じで、私は鮮やかに彩られた光へと高速で上昇しています。突然、「彼」は私の前に居て、「全ては、今、準備が整っている。よって私たちは始める」と言います。私が次に気づくことは、「彼」が私に「今、終わった」と告げることです。続いて、上昇そのものが逆転します。すると私は降下していること、また振動エネルギーが重くなってきていることに気づいていて、そしてついにストンと落ちて身体に"着陸"します! いかなる動きや音を活性化するまでに、30分ほどの時間を要したものです。私が気づいたのは、身体全体が"通常の古い自分"よりもかなり高い周波数で振動していたということです。「彼」がここに存在し、この身体-マインドの中とそれを通して展開することで、6時間ほどが過ぎていたかもしれません。
集りの人々が去った後、よく私は何時間も歩きました。木々やガレージを見透すことができ、全てが光の中でだけでなく、光として輝いていました! 徐々に、それは消えて、そして、ああ、私はいったいその後眠るのでしょうか!
これについて、また、この深遠な変化やその他のことを"適合させる"つまり統合するようになったプロセスについては、もっと多く分かち合うことがあります。しかし、ここで大切なことは次のことです。
これらのライブ録音は、イェシュアがこの身体-マインドに入り、それを通して直接展開しているイェシュアのものです。それは、誰かが「イエス」の「ライブ」に来たいと望めるほどのものです。本当のところ、何度か、「彼」は立ち上がって、そこにいた人々の間を歩きました。多くの人が、私の両目の色がブルーからダークブラウンに変わっていたこと、そして身体ですらも肩がより大きく見えたこと、また、「彼」が立ち止まり、個人的な懸念や質問に明確に対処しながら彼らに何かを直接話す際には、彼らの近くの空気そのものが、振動エネルギーと愛で満たされているかのように思えたことを報告しました。
イェシュアの「教え」のメッセージは、私たちのほとんどがキリスト教を介して経験してきたものではありません。それでいながら、それら(教え)は、その本質と対立しません。すなわち、許し、愛、そして、それぞれ全ての魂は"「彼」が在るように"在るということを実感・実現することです。また、みなさんは、"全ての世界より先に生み出された「神」の「ひとり子」"だということです! これらの教えの中で、「彼」は、このことの実感と実現を回復していく旅の中で私たちを一歩一歩ただ導いているだけでなく、「キリスト」の性質そのものをどのように開花し展開していくかということに私たちをいざなっています。
つまり、私たちが専心した学び手であることを通して、「愛そのもの」の可能性に自分を開いていきながら、まさに「愛」である「神」の生きている媒介者にもっともっとなっていく方法です。
『ハートの道』は、"「道」の三部作"の教えとして世界中の何千もの人々に知られている、3年にわたって提供されたシリーズの最初のものです。それらは、必須ですが、決して「彼」が私たちに与えた全ての完全なシリーズではありません。それらは、「マスタリーの道-パスウェイ」の5つの主要テキストのうちの三つを構成しています。
イェシュアが教えるために身体に入るというプロセスは、1988年に始まり、3年間の"「道」の三部作"の教えを「彼」が公式に始める(1995年)以前に、数年にわたって続きました。イェシュアもまた、'ジェイエム'の脳・マインドに関連している言語体系を利用する方法を学んでいたこと、身体の中に居ることに適応できるために「彼」の周波数を調整していたこと...かくして、現在『The Early Years』(英語版のみ)として音声と転写本の形で入手可能な何百時間もの「彼」のライブ音声録音を産み出していたことを「彼」は伝えてくれました。そのさらに後年、3年間の"「道」の三部作"の教えの完了に続いて、イェシュアは私に、今ここに存在し気づきを持ちながらも同時に「彼」と--また他のマスターたちとも同様に--完全に調和する方法*を、「パスウェイ」のツールをさらに発展させながら、教え始めました。
また、"「道」の3部作"の後に、「彼」は『主の祈り』と『山上の垂訓』で見つけられる「彼」の本来の教えの回復へと深く進んでいきました。これらのそれぞれは、キリスト教を介して与えられた際に甚だしくすっかりと内容が失われていますが、それは基本的に、つたない翻訳と、それらで述べられている段階的な実践練習のじかの経験に欠けていることによります。
これらの教材を読まれるみなさん、「創造」の中に偶然はありません。みなさんが今「彼」からのこれらの書き起こされた言葉を持っているということは、唯一、次のことを意味することができます。つまり、みなさんは準備ができているということ、また、みなさんのまさに魂が、「愛そのもの」のための、そしてみなさんを動かすのを待ち受けている「愛」の創造的方法のための媒介者にもっとなりたいと切望するにつれて、みなさんは、さらに深い理解、癒し、そして平安を求める「叫び」をある意味で送り出してきたに違いないということです。これは、結局のところ、あらゆる魂の普遍的な祈りとその純真さは、まさに「愛」である「神」によって、いつも答えられているということです。その時、私たちの準備はできています。
最後になりますが、急がないでください! 呼吸をして和らぎ、そしてペースをゆっくりすることを習いましょう! イェシュアが問いかけをするときはいつも、休止して、それを聞き、呼吸をして、純粋に好奇心を持ちましょう。そして、その問いかけによって、マインドに隠れているかもしれないものを表層に出していきましょう。また、「彼」が演習・練習を提供するときはいつも、先へと続ける前に、自分自身をそれに与えてみたらどうでしょうか? 私たちは誰もが、マインドに情報を集めようと試みながら、"先へと急ぐ"習慣を持っています。結局のところ、それが私たちの世界で"教育"として通っているものです。しかしながら本物の教育とは、"導かれて出ること(to be led out of)"、"変容されること"です。情報を掴むことよりはるかに良いことは、「彼」の教えや、「彼」の熟達した問いかけ(これを私は「不思議だな・知りたいなの問いかけ」と呼んでいます)の使用、そして、「彼自身」のマスタリーから「彼」が与える演習という足掛かりが、"私たちに作用すること"、また、ティーバッグのごとくそれらの中に自分を浸すことを容認することです! それは、私たちがページをやり終えている(と自分が思っている)スピードよりもはるかに大切な、私たちの内面でそれらが作用する深さです。
本当のところ、元来、それぞれの音声録音(各章)は少なくとも30日間それに没頭するようにと与えられました。それでいて、これはほんの始まりにすぎません。魂が開花し、成長して、私たちの真の「実体」になっていくにつれて、またさらに、私たちの真の「存在」のはるかに多くの宇宙的次元を回復していくにつれて、そこには「彼」によって伝達された無限のパワーの深層があります。
しかし、これらの教えが私たちの怖れの根本を溶かし消し(dissolve)、「彼」が"エゴ"と呼ぶもの(根本の怖れそのものの産物)のパターンと戦略を明確にし、また「神」への私たちの愛を自分の中で目覚めさせていくに従って、"絶え間のない展開(ceaseless unfolding)"への私たちの専心は必然のものとなります! 「愛」が、私たちがそれに対して作り上げてきた障壁の全てを本当に溶かし消し、私たちの「創造主」が「それそのもの」の全てを私たちに授けることを、本当に容認する意欲が私たちにあるでしょうか?
私たちを通して「愛」がついに天を地にもたらすことができるように、私たちのそれぞれは、この世界からではなく、この世界へと開花していくのをまさに待っている、「キリスト」と私たちが呼ぶあの「光」の閃光であることを受け入れるようになる気があるでしょうか?
みなさんだけがその問いかけに答えることができます。しかしながら確かなことは、「彼」の"「道」"は今みなさんの手中にあることです。「彼」をあらゆる既存の観念・考えを超えて、また「彼」についての単なる伝統的な神学論が有する限定的な範囲を超えて知っていくようにしましょう!
「彼」は、"みなさんが選ぶ道の上で"、彼を私たちの兄弟そして友であるようにとだけお願いしています。謙虚な体験から話しますが、「彼」は無限に根気があり、不動の「愛」の存在です。
私がみなさんにこのように書く時(2018年5月)、「彼」とのあの最初の遭遇から30年以上が過ぎています!
何よりもまず「彼」の生徒として、「彼」の「パスウェイ」に委ねる中で展開してきたことにはまた、能力と手腕を備えたティーチャー、ファシリテーターとして徐々に現れ出たことが含まれますが、私が感じることができるのはただ...謙虚さ、そして祝福されていることです。「彼」は原始の「分離」の罪悪感と痛みから私を連れ出しました。そして、私は通り過ぎてきた全てに驚嘆しています。
最も大きな祝福は、みなさんのような人々との遭遇の30年間です! そのように深遠に変えられることに自分を開くだけの充分な勇気がある人々。彼らは愛されることよりも「愛」を伸展することにより意識を向け、また、怖れの思考と誤った自己認識から生まれた過去からの束縛といったことよりも多数の可能性のヴィジョンによって導かれることをより大切にしながら、"自分の適所に着く"ようになります。
みなさんが自分を開いて、「彼」がみなさんに与えるために持っている全てを受け取ることを願います。「彼」は、みなさんが実際に誰であるかを見通していて、みなさんがそれを完全に実感し実現することだけを望んでいるがゆえに、「彼」は与えます。そうすれば、「神」が"「神そのもの」の全てを「神」が愛している存在、つまりみなさんに、授けることができるからです"。
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